魔法使い



陽射しの中で揺らぐ人々。賑やかな掛け声と品物を値切る人。そこは、朝のマーケット。焼きたてのパンのいいにおいが漂う。新鮮な果物や野菜もある。行き交う人々の間で、僕はぼんやりと空を見ていた。

「おい、おまえ……」
誰かが僕の前で止まった。若い男。肩の下まである栗色の髪を束ね、瞳は薄く曇った空の様だ。が、その雲の隙間から射し込む光に邪気はない。男は袋からはみ出したバケットと赤紫色のボトルを抱えていた。
「そんな所にしゃがみ込んで、具合でも悪いのか?」
男は訝しそうな表情で訊いた。
「熱がある」
そう答えると、いきなり僕の額に手を押し付けて頷く。

「じゃあ、こんな所に来てちゃ駄目だ」
男が言った。
「こんな所?」
僕は訊いた。
「人込みは良くないだろ? そういう時には家で大人しくベッドの中にいるもんだ」
「僕には……家もベッドもない」
僕は空を見つめた。気配はまだ感じない。僕はまだ、ここで一人きりだ。
「親は?」
「持ってない」
男がにやりと笑う。何かまずい事でも言っただろうか。男が少し怪訝そうに目を細める。
「おまえ、外国人か?」
「さあね。知らない。少なくとも、ここの出身ではない」
そう答えると、男はますます不審そうな顔をした。僕は空が気になっていた。そして、人々の影や建物の隙間や僕自身が立っているこの地面。僕を追う者はどこから現れるか予測がつかないのだ。僕自身でさえもまだ、この地に定着せずに揺らいでいる。なのに、この男は僕に話し掛けている。普通なら、気にも留めず通り過ぎる筈だ。今、この瞬間にも僕らをすり抜けて行くように……。

「家がないなら、俺んちに来ないか?」
「僕のベッドはそこにない」
「彼女のならある。そいつを貸してやるよ。今は使っていないから……」
僕は瞬きする間考えた。
「彼女? ここには人間も売っているのか?」
そう訊くと男は声を上げて笑った。
「まさか。そんなのは100年も昔の事だろう?」
「100年前には売ってたのか?」
「そうかもしれないな」
男が神妙な顔で頷く。
「あなたも買う? 僕が売り物だったら……」
「いいや。俺は買わない。これはボランティアさ。おまえ、家がないって言っただろ?」
「ああ。家も親もベッドも持ってない」
僕は繰り返した。
「だからさ。今日は金がある日だし、二人分の食料はある」
「金? 僕はそれも持ってない」
通り過ぎる人々は誰も僕を見なかった。
「俺が持っているからいいんだ」
彼らには見えていないのかもしれない。

「あなた、変わっているね」
「おまえも変わっているぞ」
「どうして?」
「名前も名乗ろうとしない」
「僕は……ジョーだよ」
「ジョーか。俺はエラールだ。酒場で流しをやってる」
「何故?」
「いつかメジャーになりたいからさ」
男の背後に映るのは、喝采を浴びる彼の舞台。男は夢を見ているのだ。

「その夢は叶う?」
「ああ。絶対に叶えて見せるさ」
エラールは自信満々だった。でも、実際には、場末のキャバレーで歌う彼の惨めな日常が透けている。

「その夢、僕が叶えてあげようか?」
「叶えるだって? おまえが……」
エラールは信じられないと言うように首を横に振った。
「そのパンと葡萄酒を少し分けてくれたら……」
僕は続けた。が、男は笑い出した。
「ほんとだよ。僕は魔法使いなんだもの」
「魔法だって? そりゃ、確かにおまえ、手先は器用そうに見えるが……手品みたいな訳にはいかないさ」
「信じないなら、それでもいいよ」
僕は俯いた。男の靴は先端がめくれている。
「信じないなんて言ってない」
「それなら、僕を信じる?」
「いいや」
男は笑い出し、僕はため息をついた。


男の家は、路地裏の安いアパートが密集している場所にあった。その中でも特に古そうな建物の4階を登った屋根裏。備え付けられているのは、鎧戸の付いた窓と小さなテーブル。それにソファー。ベッドは一つしかない。床張りの部屋の隅にはギターと乱雑に物が収められたラック。その上には鉢植えのサボテンが一つ乗っている。
「寝たいなら、そのベッドを使えばいい」
男が言った。
「でも、あなたのは?」
「俺はそこのソファーを使う」
それはソファーとは名ばかりのあちこち破れたぼろぼろの品だった。
「彼女のベッドがあると言ったのは嘘だったの?」
「いや、本当さ。そいつは彼女のために買ったんだ。俺一人ならソファーで十分だからな。でも、3ヶ月で出てったよ。処分しちまおうかと思ったんだけど、役に立って良かったよ」

男は買って来た品をテーブルに並べている。
「それじゃ、使わせてもらうよ」
僕は確かに疲れていた。熱があるのも本当だ。僕はベッドに腰を下ろした。
「寝る前に食事にするか」
男は奥の棚からグラスを二つ持って来て葡萄酒を注ぎ、切り分けたパンにチーズを乗せて僕にくれた。
「ありがとう」
僕は一切れのパンを食べ、葡萄酒を飲んだ。男はパンを二切れと葡萄酒を2杯飲むと立て掛けてあったギターを取った。

「子守唄でも弾いてくれるの?」
僕はベッドに潜り込んで訊いた。
「お望みとあらばな。だが、俺は俺の生活スタイルを変えるつもりはない。これから3時間は歌の練習さ。うるさけりゃ耳栓でもしててくれ」
「いいよ。僕はいつでも好きな時に遮断出来るから……。あなたの力量次第だよ」
僕がそう言うと男はギターをつま弾き始めた。メロディアスないい曲だ。どれも彼が作ったのだと言う。その声は良く伸びて艶があった。囁くようなトレモロと張りのあるロングトーン。聞き心地のいい安定した曲想に僕はうっとりと聴き入った。

「何だ? 寝なかったのか?」
一通り演奏を終えると彼が訊いた。
「とても素晴らしかったから……。寝るのが惜しくなった」
僕がそう答えると男は頬を蒸気させて言った。
「嬉しい事言ってくれるね。上等のワインを贈るよ。俺がメジャーデビューしたらな」
「きっと出来るよ、あなたなら……」
その日、咲かない筈のサボテンに蕾が芽生えた。

エラールは、夕方6時になると店に出掛け、深夜の1時に帰って来た。僕はその間、ずっと部屋の中で過ごした。身体がまだ適応していなかった。身体の不調を完全には治せず、日中は寝たり起きたりを繰り返していた。そんな僕にエラールは文句も言わず、部屋から追い出すような事もせず、いろいろ面倒を見てくれた。
酒場ではいろいろな客がいるらしく、よくトラブルも起きた。ある時、彼は怪我をして血を流して帰って来た。服にアルコールのにおいが染み込んでいた事もあった。それでも、彼は黙々と仕事をし、翌日にはまた、何事もなかったかのように店に出た。


ある日、家にはパンが一切れしかなかった。それを僕に寄越して彼は言った。
「俺は店で食べれるからいいんだよ」
そんな筈はなかった。彼が勤めているのがどんな店なのか、僕は知っていた。オーナーは細かい性格で、決して無駄な事はしない。エラールがそこで食事を受けられる環境など、まるでないのだ。
それなのに何故、彼は食事を僕に譲ってくれるのか。僕が病人だからか。子どもだからか。あるいは、他に何か理由があるのか。僕には見当がつかなかった。
「どうしてあなたは、そんなに僕に親切にしてくれるの?」
そう訊いてみた。
「だって、放っとけないだろ?」
彼はギターを鳴らしていた手を止めて言う。
「僕がいたら、あなたが食べれなくなるよ」
「そうかもしれないな」
彼は何度も同じ和音を鳴らす。
「じゃあ、どうして?」
「多分……大勢死んだからかな」
「死んだ?」
「戦争だよ。戦いで沢山の命が犠牲になった。おまえ位の年の子どもも……」
「あなたの兄弟も?」
「そうだな」
それきり彼は沈黙した。下ろした鎧戸の隙間から風が僕達の間を回る。サボテンの花はいつ開くのだろう。


ある日。エラールが息を切らして階段を昇り、一人の男を連れて来た。僕は倦怠感に悩まされ、ベッドの中にいた。
「ジョー、起きてるか? この人は医者だよ。おまえを診てくださるんだ」
彼が連れて来たのは、身ぎれいな格好をして、重た気な腕時計をした恰幅のいい中年男だった。
「ほう。私に診察して欲しいというのはこの子かね? どれ、まずは口を開けて。喉の様子を診よう。何しろ私は忙しい身なのでね」
エラールは背後でにこにこしていたが、僕は不快だった。
「症状が出たのはいつからだね?」
医者が質問した。
「2年位前から……」
僕は適当に答えた。
「その間に、医者に診せた事は?」
「ありません」
僕が答えると、医者は部屋の中を見回して言った。

「まあ、診察料も薬も高いからね。君達のような者には難しいだろう」
良心的なのか、それとも馬鹿にしているのか。どっちだろうと僕はその男の茶色の目を見つめた。
「処方箋を出しておこう」
男は鞄から出した書類にすらすらと薬品の名前を書いた。薬の名前は……ただのビタミン剤だ。
「では、私はこれで……。患者が待っているのだよ。私に診て欲しいという人間が沢山いてね。もともと私は上流の人達しか診ないのだけれど、今回は特別に診てやったんだ。それだけでも感謝したまえ。ま、次にも前金で払うと言うなら考えなくもないが……君達よりもっと優先されるべき命はいくらでもあるんだ」
医者はそれだけ言うとそそくさと階段を降りて行った。僕はそいつが撒き散らして言った埃を吸って咳が止まらなくなった。

「たまたま店に来たお客さんでね。前金で診察料を払えば、おまえの事、診てくれるって言ったんだ。高名な医者で、滅多に診てもらえないと聞いたんだが、話をしたら、快く診てくれるって……。良かったな。薬のお金はオーナーに頼んで前借りさせてもらうから心配するな」
エラールは嬉しそうだった。
「僕の病気は治らないよ」
「何を言ってるんだ。せっかく高名な医者に診てもらえたんだぞ。それとも遠慮してるのか? 薬の事か? なら、心配するな。俺が何とかしてやる」

「あれは医者なんかじゃない」
僕は言った。
「ジョー……」
「奴は詐欺師だ。わかってるんだろ?」
電球が切れ掛けているのか何度か明滅を繰り返す。
「ああ……薄々な」
「なら、どうしてさ? 診察料、高かったんでしょう?」
サボテンの蕾はまだ開かない。
「おまえが元気になると思ったんだ」
男が言った。
「医者に診察してもらえたら、少しはおまえが良くなると思ったんだ。希望が持てると……」
「嘘でも?」
僕は目を伏せた。
「嘘じゃないさ。きっとおまえは良くなる。そうだろ?」
部屋の隅にはギターと空のボトルが転がっている。

「あなたの子守唄が聴きたい……」
ベッドに横になって僕は言った。
「子守唄は……知らない。俺が歌えるのはラブソングだ」
「構わない」
天井を這う蜘蛛を見つめて僕は言った。
「聴かせてよ、あなたが歌うラブソング」
出会ってから2ヶ月が過ぎていた。曲想は変化していた。内在した悲しみと明るいメロディーが絶妙に絡み合う。

――戦争だよ。戦いで沢山の命が犠牲になった

その戦争で僕は兵士だった。その戦争で僕は死んだ。その戦争で僕は市民だった。もう、どれも昔の事だ。そのどれもが歴史からは排除された。本当の事など誰も知らないだろう。本当の葡萄酒の味なんか誰も知らないのと同じように……。

「ねえ、覚えてる? 僕と初めて会った日に、僕が言った事」
「魔法使いだって事か?」
「そうだよ。僕は魔法使いだから……あなたの夢を一つだけ叶えてあげる」
「じゃあ、俺が望むのは一つだけだ」
陽射しを浴びてサボテンの蕾が綻び掛けていた。
「おまえの病気が良くなって元気になる事だ」
「それから?」
「そうしたら、おまえは自由だ。そうだろう? こんな薄汚い屋根裏部屋に居る事もない」
「僕が邪魔なの?」
「そうじゃない。だが、春までには、ここを引き払うように大家から言われてる」
男の目は少し悲しそうだった。
「じゃあ、それまでにあなたはきっと成功するよ」
「そうなるといいんだけどな」
男は笑ってギターを持ち直した。


冬。部屋には夕日が少し射し込んだ。ほんの一瞬だ。けど、その瞬間を僕は愛した。男は夕食の支度をし、いつものように薄切りのパンと玉葱の浮かんだスープをくれた。
「葡萄酒もあったら良かったのにね」
僕は言った。
「そうだな」
男が頷く。その鼻先に甘い花の匂いがすっと流れた。サボテンの蕾が小さな赤い花を咲かせたのだ。

「今夜、あなたはきっとワインを買って来る」
「そうしたいけど、給料が入るのは明後日だよ」
「ううん。今夜さ」
僕は言った。
「何故?」
男が訊いた。
「サボテンの花が咲いた」
僕は答える。
「そうだな。いい前兆だといいけどな」
「エラール」
僕はじっと彼を見つめた。男はただ笑ってパンを囓った。そして、食事が終わると、彼はいつものように夜の店へと出掛けて行った。

僕は気配を感じていた。ここにはもう居られない。風の方向が変わったのだ。僕は階段を降りて行った。暗い穴蔵のような階段は、そのまま夜に通じている。出会った時、夏だった季節は、いつの間にか秋を通り過ぎて冬の初めに近づいていた。
店では拍手と絶賛の嵐が起きていた。彼は認められたのだ。メジャーの会社のスカウトマンが酒場で歌っている彼の才能を見つけ、彼に契約を持ち掛ける。無論、彼はOKするだろう。そして、ワインのボトルを持ってあの階段を上がる。後ろ姿に月が反射している。
「これは、魔法さ」

――あなたの夢を一つだけ叶えてあげる

夜に灯る一つだけの赤い星のように、部屋にはただ赤いサボテンの花が一つ開いてあなたを待つよ。さあ、乾杯しよう。BGMは、あなたがくれた子守唄で……。